はじめまして。ご訪問いただきましてありがとうございます。当ブログを運営しております、ハリーです。
私は、公認会計士歴20数年、がん患者歴8年、ミニマリストを目指して1年ほどの大阪在住アラフィフ女性です。
そして、2021年末ブログデビューしました。
自己紹介がてら公認会計士になった理由、ミニマリストを目指した理由について記載していきたいと思います。
がんになった理由、、、、それは推測でしかわからないので割愛します。
*公認会計士とは…医師や弁護士と並ぶ難関資格と言われています。
主には上場会社などが広く市場から資金を調達するために会計監査を受けなければならないとされていますが、その会計監査を独占的に行える資格です。
そのほか学校法人が補助金を受ける場合や一定規模の医療法人なども公認会計士の監査を受けることとされています。
税理士業務をしている公認会計士もいますが、その場合は公認会計士の登録とは別に税理士としても登録しています。
公認会計士になった理由
- 経済的な自立なくして人権なし
私の実家は大阪で中華料理店を営んでいました。
父親に当時言われたことは「親に世話になっている間は親の言うことを聞け」でした。
例えば、子供は家業に貢献するべきとの方針でした。
子供ですからできることは限られてます。
小学校低学年だとモヤシのひげ取りや箸袋に箸を入れる作業。中学年だと食器下げや食器洗い。高学年だとできた料理をお客様に配膳する作業です。
家業が忙しくなる可能性のある土日は家の電話が受けられる場所で待機します。
昼ご飯を忘れて遊び惚けるということはしたことがありません。
忙しくなったと連絡があればその時に何をしていても店に向かいます。
ちなみに忙しくならなければ家で待機しています。何も生み出しません。
そのほかにも、身なりは「下着は白」だの「髪型はショート」だの決められていましたし、門限もほかの子よりかなり早く、小学校・中学校では17時、大学生の時は20時でした。
大学から家まで1時間半かかるので18時すぎには大学を出なければなりませんでした。
理由は 「親に世話になっている間は親の言うことを聞け」 です。
当時の私はこの言葉の意味を過度に捉えていたかもしれません。
つまり、もしも親の世話を受け無くなり親から解放されても、将来夫の世話を受ける立場になったら今度は夫の言うことを聞かなければならず、子供の世話を受けることになれば子供の言うことを聞かなければならない、つまり本当に自由を手に入れるためには経済的に自立するしかないのだと。
- 客観的評価を得る
私という人間を自己分析してみると、打てば響くような受け答えや暗記力があるわけではありませんが、じっくり考えて系統立てて考えたり覚えたりする傾向があります。
逆に、何かを達成するために何が必要かを見極めて、そのためには何が不足しているかを分析し、不足を埋めるために必要な資源(ツール、環境、経済力)を見極めて進捗管理することは得意です。
このスキルは自分が成長するうえでも、仕事上のプロジェクトを進めるうえでも役に立った気がします。
パッとしない成績の私が一般的には難関と言われる公認会計士試験に受かったのもこのスキルのおかげです。
しかし、特に子供のころはどうしてもハキハキした俊敏な子が評価される傾向にあります。
小学生の私は、このまま社会に出て就職試験を受けたり商売を行ったりする場面ではそういう性質は評価されにくいであろうと予想しました。
そうなってから苦労する前に自分の能力を客観的に高く見せる必要があると考えました。
- 男尊女卑
昔ほどではありませんでしたが、女性には女性の義務があるとされていました。
私には弟がいましたが、家事の手伝いや身だしなみの指摘は弟にはなく私にだけなされることがありました。
なぜかと聞いたことがあります。
親から手紙で辛く当たる理由を説明されたこともあります。
その答えは「女だから」でした。
私は手伝いをすること自体は、嫌いではありませんでした。
(嫌いな作業もありますが)
ですが、「女だから」という理由でさせられることについては理解できませんでした。
女だけがルーティン的なことを強いられているように見える状況を見て、自分の将来がそうなることを想像すると本当に嫌でした。
- 解決策
小学校高学年から中学生の私は上記のような理由で本当に生きづらさを感じていました。
「何のために生きるのか」と悩むあまり、毎日何時間も時には泣きながら母親に相談しました。
すごく迷惑
小学生の時に両親が経理学校出身であることや簿記の資格を持っていること、公認会計士というものを目指そうと思った時期があることを知りました。
そこで、経済的自立と客観的評価を手に入れ、男女関係なく働くための手段として公認会計士になろうと決め、中学校2年生の時に『世界に羽ばたく公認会計士』になると宣言しました。
- その後
学校の成績もパッとせず文句ばっかり言っている私が「『世界に羽ばたく公認会計士』になる」と宣言した当時、母は「まあ無理だろう」と思ったそうです(後日談)。
しかし、母のよいところはそれを表立っては否定しなかったことです。
そして、具体的な目標を定めやりがいを見つけてからの私は生きやすくなりました。
それからも苦労の連続でしたが、苦労の方向が「何のために生きるのか」を考えることではなく「どうすれば高校に受かるか、どうすれば大学に受かるか、どうすれば公認会計士になれるか」を考えてそれを実行していくことになったからです。
明確に目標を持って努力するようになってから、両親も家業を手伝うことを求めなくなりました。
門限や身なりへの口出しは相変わらずありましたが、大学2年生で公認会計士になるための専門学校に通うようになってからは帰宅が22時でも大丈夫になりました。
専門学校の授業が21時までなので、終わってから帰ったら22時になります
振り返ってみると、私の生きづらさは私が明確な生きる道を見つけられなかったことから派生的に生み出されていたのかもしれません。
- 余談ですが
公認会計士になれたのは大学生の時に公認会計士の専門学校に行くための学費を出してくれた親のおかげだと、本当に感謝しています。
考え方に少し違和感があるところはありますが、私が決めたことに関しては今までずっと応援してくれ、達成したらとても喜んでくれています。
専門家になるということについては、「女性なのに」という一抹の葛藤はあったと後日聞きました。
親の心配した通りに私は未婚です(笑)が、それは公認会計士であることとは無関係ですよ~。
ミニマリストを目指した理由
私は40歳の時にがんになり、44歳で他臓器に転移、46歳でまた別の場所に転移しました。
一般的には根治は諦め、進行を遅らせることを目指す段階です。
そこで、紆余曲折ありましたが、終活をすると決めて会社を辞めました。
- 当時の状況
46歳当時の私は、子供のころの夢であった「公認会計士」にはなれましたが、「世界に羽ばたく公認会計士」ではありませんでした。
社会人になってからずっと日本の企業で働く給与所得者でした。
「公認会計士」として有名な人はテレビに出たり大学教授になったり自身で顧客を持って税務や会計の業務を行っています。
しかし、私は給与所得者であることにこだわりがありました。
理由はいくつかありましたが、一番の理由は「超リスクヘッジャー」だからです。
*リスク=不確実性
リスクヘッジャー=不確実を嫌う人、変化を恐れる人
モットーは「一家に一人、正社員」でした。
ですが、私はストレス耐性が低いようで、仕事にはやりがいもありましたが常にピリピリしていました。
「給与の8割はストレスに耐えた代償だ」くらいに思っていましたが、そのことにあまり疑問を持っていませんでした。
- 終活からのミニマリズム入門
しかし、がんの再発再再発を繰り返し、ごく近い将来に人生が終わってしまうかもしれないという状況になった時に、「ストレスを抱えたまま死んでいいのか」と思うようになりました。
その頃は仕事のストレスに加え、病気のストレスもあり、私の低いストレス耐性を超えていました。
時間も体力もあるうちに終活しようと会社を辞めたところ、偶然かもしれませんが病気の進行が止まりました。
終活する必要がなくなったわけです。
しかし、終活の一環として始めたものの、物の整理や財産の見直しが思いのほか心地よく、いろいろ調べていくうちにミニマリストの考え方に魅力を感じるようになりました。
今では前向きにミニマリストを目指しています。
しかし、私のようにがんと共存する人間にとってはその中に終活の要素も一部含まれてきます。
がんと共存するミニマリストとして、今後どうやって幸せに生活をしていくか。
このブログを通じて考えることで、幸せに近づいていきたいです。
ミニマリズムが幸せへ手段だと感じる方、
ともに豊かなミニマリストを目指しましょう
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